あの植物は中国から日本長崎に持ち込まれたのですね。
中国の「清明節」に併せて日本に一時帰国のジンダオ。
故郷の墓参りをしているのですが、我が家の墓があるお寺の周辺は、
「寺町」と呼ばれる場所で、その名の通り寺院が並ぶストリート。
他の地域にも「寺町」というのがあるそうですが、
長崎では鎖国の影響もあり一般的な日本式のお寺いがいに中国伝来の「唐寺」も並んでいます。
唐寺の特徴の一つとして漆を使って朱色に塗られている点。
中国人が見て「何で中国のお寺が日本にあるの?」と思うくらい、同じような様式です。
その長崎の寺町にある「興福寺(こうふくじ)」前を通ったのですが、
朱色の門の横に少し似つかわしくない黄色いノボリが。
ノボリを見てみると「熱烈歓迎隐元和尚」と中国語の文字と、
徳の高そうな和尚様の似顔絵が。
この和尚様の名前は「隠元和尚(いんげんおしょう)」
時は1654年、興福寺の熱烈なラブコールを受けて来崎。
来崎時の「隠元和尚」の年齢は既に63歳。かなりのご高齢で海を渡られたそうです。
その際に「隠元和尚」は、お弟子さん、中国の各種職人を引き連れて長崎に上陸。
一年ほど長崎に滞在された後は日本各地を周り82歳で死去される20年間、
日本に滞在して仏教界の発展に尽力されたのだとか。
そんな和尚様と共に海を渡ってきた職人が、
建築、書、彫刻などの中国文化を日本国内に影響を与えたのですが、
同じく日本に持ち込んだ植物も日本で広く定着していきました。
その持ち込んだ植物の一つが「いんげん豆」
「いんげん豆」は精進料理で利用される点、育てやすい点が広く受け入れられ、
日本の食文化にも根付いたのだとか。
中国では「いんげん豆」の事を「四季豆(sì jì dòu)」「扁豆(biǎn dòu)」等と呼ぶのですが、
中国名が定着せずに、和尚様の功績から「隠元(いんげん)」の名前を用い始めたそうです。
隠元和尚、「いんげん豆」以外にもモヤシ、落花生、
スイカ、蓮、孟宗竹などを持ち込んだと言われています。
中国伝来の品、私達の身の回りに意外と多いのですね。
お寺データ:興福寺(こうふくじ)
住所:長崎市寺町4番32号
創立:1620年
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今日の振り返り!中国語音源
四季豆 (sì jì dòu) いんげん豆
隐元和尚 (Yǐn yuán hé shàng) 隠元和尚